18  (K−10) ( 内代小学校 校庭)国道2号線 道標  
都島区内代町3−4−6
 
昭和27年4月17日 内代町3−35番地に榎並小学校の内代分校として発足
昭和24年4月1日 内代小学校として創立 男子340名 女子319名 合計656名 
昭和28年前後のしゃしんです、学校には

フェンスもなく、何処からでも 学校に入れました。
昭和30年に鉄筋校舎がかんせい、昭和32年に講堂 35年にプ−ルが完成
31年卒業の我々にはこの校舎が懐かしいだけです。
尚 校歌が出来たのが昭和38年でした。國道第二號路線 距 高麗橋 原標 ・・・・
距 守口 一理三丁四十七間明治三十六年十二月建設
この里程元標は、東京日本橋の里程元標と
対をなすもので、明治時代に高麗橋東詰に設置され、
西日本の主要道路の 距離計算
(はここを起点とした。現在は梅田新道交差点に置かれている
大阪市道路元標が国道の起点となっている。)
京街道の近野ガレージの辺りに背の高い樹木のそばに囲いで囲まれ
有りました。子供の頃は一里塚と呼んでいました。

右下の 白黒写真は 古本様 もと連合会長の内代郷土史より
桜宮神社


 57  (S−10) 桜小橋

      鯰江川支流・榎並川九箇井路を渡る桜小橋という橋である
現在は埋め立てられ桜小橋も撤去されているが,交差点名に名を残すほか,交差点北西角に「桜小橋公園」という
親水公園が設けられている.ただし橋に関する記念物・遺構は一切置かれていない.
交差点の南西角に,幅30cm,長さ1mほどの平行四辺形の切石が放置されている.短辺から見て右約60度の傾きで,
当時の市街地図で見ることのできる天満蒲生線と榎並川九箇井路もほぼこの角度で交差していることから,
橋の部材か河川の護岸に使われていた石材であるのかも知
59  (V− 4) 太閤園 藤田都島区網島9−10

太閤園とは、大阪市内中心に位置する緑に囲まれた
   7000坪の敷地をもつ、歴史ある結婚式場です。  
    関西屈指の日本庭園を擁する太閤園のの歴史は   
   明治42年、当時関西財界の雄であった藤田傳三郎男爵の邸宅   
  「網島御殿」から始まりました



藤田美術館の門は大長寺の門を使用しているとのこと
60  (S−10) 蒲生墓地 都島区東野田3−2−26

京阪京橋駅(12)南の京街道の分岐点からJR大阪環状線・京橋駅(10)を越えて大和街道(古堤街道)(6)を東へ向かうと北側に蒲生(がもう)墓地(7)があります。
江戸時代に観音さま巡りと同様に、大坂三郷の周りに造られた七つの墓地を7月16日前後に巡って供養する七墓参りという風習があり、その大坂七墓の一つの墓地です。
大坂七墓とは梅田墓地、南浜墓地、葭原(吉原)墓地、蒲生墓地、小橋(おばせ)墓地、千日墓地、鳶田(飛田)墓地で、現存するのはこの蒲生墓地と南浜墓地だけで、他はすべて
移転しているので歴史的に貴重な存在です 都島区役所が管理しております。又珍しい刻字の墓石があります。
       
人には辛抱が一 番      (お金と言う字を分解してあります。       
  68  (X−02) 京橋口

京街道は大坂京橋を起点にして京都に至る道で、京道ともよばれました。淀川は暴れ川でしばしば左岸が決壊し、
北河内が洪水の被害を受けました。大坂、淀、伏見に城を築いた豊臣秀吉は文禄年間に軍用道路の確保と治水を兼ねて
大坂から伏見までの淀川の左岸堤防を修築しました。この堤防を文禄堤といい、堤防上の道が京街道です。

京街道は江戸時代には東海道の延長部として、守口・枚方・淀・伏見に宿(しゅく)を置くなど整備がなされ
大坂と江戸を結ぶ幹線道路の一部として賑わいました。

明治9年(1876)に官設鉄道、同43年に京阪電鉄が大阪〜京都間に開通すると、京街道の幹線道路としての重要性は急速に減退しました。
52  (N−10) 榎並講 城東区野江3−5−28

昭和初期 大峰山信仰がはやり、男の子は十三才になると大峰 修行に行きました。
祠は昭和八年(1933年)に建てられました

石像は 役の行者(えんのぎょうじゃ)(役の小角)  「おづの」「しょうかく」ともよばれた) 
 前鬼 後鬼という鬼の夫婦を使役とした。

不動明王と脇士
向かって 右−矜羯羅童子(こんがらどうじ)  向かって 左−制多迦童子(せいたかどうじ)

一度見に行かれたらいかがですか迫力があります

榎並小学校
 65  (T−15)  若宮八幡~社
       城東区蒲生4−3−16

 若宮八幡大神(わかみやはちまんおおみかみ)≪仁徳天皇≫を祭神とする神社で、
創建年月は定かではありません。社地は、昔から村内の小さな丘にあって、
楠や榎などの大木がうっそうと繁り、昼なお暗い感があったと伝えられています。
中でも楠の老大樹は、明治18年まで神木として崇敬されていました。
境内にあるクスノキやムクノキなど11本の樹木が、
平成9 年10月31日大阪市保存樹に指定されました。

 大阪夏の陣(冬の陣とする説もある)のとき徳川方のわれています。
佐竹義宣が境内に陣を張り、戦勝祈願したとい
 場所:蒲生4丁目3番16号
八軒浜の絵
八軒浜の絵
0 5 (C−15) 大宮~社
   旭区大宮3−2−2
大宮神社の創建は、今から約800年昔、文治元年(1185年)2月、源義経が平氏追討の為下向の際、
この地に一泊し、その時に宇佐八幡の神の霊夢を見
、目覚めてみれば、一樹の梅の古木に霊鏡が掛けられていました。義経は吾に神助ありと勇気百倍、
その鏡を奉じて平家を討ち滅ぼし、後鳥羽上皇に奉上して
神社建立をお願いして許され、この地に社を建てて大宮八幡宮と称したと伝えられています。
摂津誌に記されている「南島神社」は当社のことです。
降って天正11年(1583年)豊臣秀吉が大阪城を築くに当たり、
当社を「鬼門守護神」として崇め、社殿、末社を建立、神域を整備しました。
 その後、明治40年9月に産土神社他6社を合祀し、明治45年4月に
大宮八幡宮を改め大宮神社と称し現在に至っています。
0 6 (D−12) 重誓寺(じゅうせいじ)   
   旭区中宮2−4−19
 昭和20 年(1945)
6月7日の戦災で本堂と共に焼けてしまった。 昭和19 年(1944) 梵鐘が軍需供出されました。

 当院第13 代浄念の時、本願寺と織田信長との間に石山合戦がおこり約10 年間本願寺は籠城した。その
時、この榎並の村々より番衆や兵糧を送った。特に青田を刈って夜ひそかに運んだということで「青田刈り」
という言葉が出来たそうである。 それを起源して本願寺よりこの榎並の寺、門徒にご消息が下され、江戸時代に榎並十四日講という講社が出来て、昭和の中頃まで、榎並(旭区、城東区、都島区)の浄土真宗各寺で
毎年その御消息披露の法座が開かれていた。
 明治5年(1872) に小学校の制度が始まったが、明治8年(1875) 7月に寺内に中村小学校が設立され、
大阪府第五大区3小区で江野、中(中宮)、南島(大宮)荒生(生江)、内代、関目の子弟が通学した。その後、
明治13 年(1880) 3月に5番小学校、明治20 年(1887)4月に中村簡易小学校と称し、明治22 年(1889) 7月
城北尋常小学校が創立されるまで続けられた。昭和20 年(1945) 6月7日、大阪市北東部の大空襲
があり、寺は焼夷弾で本堂庫裡書院等が全焼した。 その時、多くの寺宝、記録が消失したが、次のものが疎開により消失を免れた。
12  (L−14) 明治天皇 御駐輦之跡   (ごちゅうれんのあと)

前年の慶応三年(1867年)10月には「大政奉還」、12月には「王政復古の大号令」を出し、翌年の1月2日に勃発した「鳥羽伏見の戦い」に勝利した薩長・・・。
明治天皇という錦の御旗を手に入れて官軍となった薩長軍の大久保利通は、「幕府にはむかう逆賊」のイメージを拭い去り、天皇中心の新しい政治が始まる事を印象づけるために・・・と、慶応四年(明治元年・1868年)1月19日、「大坂遷都白書」を提出します。

しかし、予想通りこの案は、大昔の平安の頃の天皇中心を夢見る京都の公家たちの猛反対に遭います。
あまりの反対ぶりに、大久保はしかたなく、当面の目標を、天皇の「大坂御幸」に変更し、1月29日に明治天皇の大坂行きが決定します。
つまり、「首都にはまだ決定していないけど、とりあえず天皇は大坂に滞在してください」って事です。
そして、3月21日、京都を出立した明治天皇は大坂に入り、翌22日の夜、お寺に一泊・・・それが、難宗寺です。
そこで一泊された明治天皇は、翌3月23日、東本願寺の末寺・盛泉寺に入り、ここに内侍所(ないしどころ・賢所)を置かれたました。
幻の大阪遷都と云われた慶応4年(1868ねん)3月22日明治天皇初の大阪行幸。
1659名の一行は守口宿に一泊、三種の神器 賢所を盛泉寺に置かれ 
宿泊は難宗寺でなされました。
賢所(かしこどころ)とは、宮中にあるアマテラスオオミカミを祀る場所で、天皇が祭祀行う最も重要な場所・・・つまり、この時、わずかの間だけではありますが、この場所に天皇がいて賢所があったという事で、厳密に言えば、ここが日本の首都であったという事になります。
しかし、その後、前島密(まえじまひそか)から、新たな「東京遷都論」が出され、1ヶ月後の4月には新しい官制が発表され、天皇は江戸へ行かれますが、もちろん京都の公家たちは、これにも反対・・・結局、またまた、とりあえず・・・といった感じのまま、7月に江戸が東京と改められたのです。
京都のお年寄りが、未だに「天皇さんは、東京に行ってはるだけや」とおっしゃるのもわからないではありません。大阪の津村別院に1ヶ月ほど逗留され、そのご江戸へいかれました、
鳳輦(ホウレン)屋根に鳳凰の飾りが付いた天子の乗り物、左から三番目の絵にあるような乗り物に乗って、明治天皇が行幸されたときにも内代の京街道をを通過 されたとのことです。
16  (M−20) 大阪 国技館跡
城東区古市2−7−3 現在 リベエール関目
大阪国技館は、敷地6千坪、建坪3千坪、鉄筋コンクリート4階建ドーム式、収容人員25,000人の国内屈指の屋内スポーツ施設で
昭和12年3月に竣工しました。同年6月9日のこけら落としの大阪準本場所は、連日「満員御礼」の垂れ幕が下がり、
梅田駅と難波駅から市バスが臨時運行したそうです。
 国技館の前には、2階が力士の宿舎になっていた相撲茶屋が建ち並んでいました。昭和16年の太平洋戦争の勃発で、
わずか4年間7回の準本場所の開催だけで
休館を余儀なくされ、昭和26年ごろには解体されてしまいました。
 古市2−7−3 現在 リベエール関目                       城東 区ホームページより
航空写真で確認できます。

0 2 (C−18) 寶龍寺(ほうりゅうじ)
 旭区今市1−9−25
 樹齢800年天然記念物の 大楠      
大阪市の天然記念物に指定されています。
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大宮神社
京街道を歩く 都島 旭区 城東区
貨物線廃線跡
淀川~社 与謝蕪村の銅像         
毛馬の水門 閘門
母恩寺の案内碑
母恩寺

49 (0−13) 六反池 (六段池) (推測)

六反池事件 大正九十二月 六反池に女性の胴体が浮かび上がって事件が発覚野江村の六反池事件として、大々的に新聞報道がされ猟奇的事件です。 
我々素人がネットや印刷物で事件を書くのも、何処まで公開して良いか、悩ましいところですので詳しくは書きません。詳細を知りたい方は、説明いたします。
35  (j− 4) 拘置所
都島区友渕町1−2−5
一度見学に行来たいのですがいかがですか。                

マンション見違えるみたいで驚きの連続です。
46 (E−01) 与謝蕪村の 句碑   都島区毛馬町3附近 公園 堤防上

 江戸中期の俳壇を革新し南宗画を開拓した与謝蕪村は、享保元年(1716)、
摂津国東成郡毛馬村(現都島区毛馬町)に生まれました。本姓谷口、のちに与謝。
20歳のころ江戸に出て早野巴人に俳諧を学び、東国から丹後国与謝地方を遊歴後、
43歳で画家として京都に定住し、詩情あふれる独特の画境を開きました。
俳諧では早野巴人の夜半亭を継ぎ、感性的・浪漫的な俳風を生み出し、芭蕉と並び称されています。
公園には句碑が15ぐらい有ります。メインは堤防の上です。        
 
 安永6年(1777)作の長詩「春風馬堤曲」は、藪入りで毛馬堤を故郷へ
急ぐ女性の情趣を蕪村自身の郷愁の念を籠めて描いたもので、
蕪村はこの地を離れた後も幼時を想い毛馬村へ望郷の念を抱き続けていたことがわかります。

 淀川左岸堤防上に建つ蕪村の句碑は、
「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして家遠し」の句を蕪村の筆跡で刻んだもので、
淀川改修百年記念として昭和55年(1980)に建てられたものです。
享保元年(1716年)この付近の毛馬村で生まれた与謝蕪村の碑
「春風や堤長うして家遠し」蕪村時代の毛馬村は 淀川の改修により 水没して有りません。
20  (M−12) 野江水~社    城東区野江4−1−39

天文二年(1533年)三好政長が榎並城築城の時に、水火除難を願って
城内に小さな祠を作ったのが起源だと言われています。社殿は明治十八年
(1885年)の洪水で倒壊し3年後にされました。洪水の
若宮八幡~社
0 7 (G−17) 森小路東公園 京阪線路跡  旭区森小路1−7

京橋口より4.4qの地点です、碑のある森小路公園は、            京阪電車の路面線を利用した、 公園です。 
内代帳のページへ
理美容士のこと
一人一銭で さかやきを剃り髪をを結ったとこからの異名だそうです。
その墓碑は成田山別院に移されているとのことですので、「確認はしておりません。

 関西大学都市遺産研究所所蔵 牧村史陽氏が撮影した写真有り
      青色の文字をネットで検索してください。


延宝年間(1673年)より昭和まで416基を数えたと言う。

○注 2015年10月11日 見たいお地蔵さんがあり、蒲生墓地に行ったところ、全ての
入り口に鍵がかかり、墓地には入れませんでした。
榎並川の痕跡

城東区成育5−22−6

  70 高麗橋   中央区北浜6−5
  現在の里程元標は梅田新道の北西角にあるが、     
昔は高麗橋の東詰に設けられていた。
        明治9年(1876)に施行された「河港通路工事心得条令」に
基づいて建てられたもので、京街道・中国街道・暗峠(くらがり)越奈良街道など諸国への道のり、
 車馬賃などはこの元標を基点に、道頓堀まで
22丁、川口波止場へ25丁、京都府の元標三条大橋へ   13里12丁、東京都の日本橋まで143里20丁という   
 ように計算されていた。高麗橋は、江戸時代から公儀橋の中でも重要な地位を占めており、諸国への    
里程はここが中心であった。またその西詰には町奉 行所の制札場があって
、御触書が掲示されていた。鉄橋に架け替えられたのも高麗橋が
最初で(明治3年9月)、道路までが 「鉄橋通り」と愛称されて珍しがられたものである。                      
 大正年間まで西詰の両側に一対の櫓があり、 現在は欄干につけられた飾灯の形に残されている。 
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55  (P−09) 野江 刑場野江の処刑場(仕置き場)跡刑場に有った南無妙法蓮華経の
石碑は(右写真)     守口の義天寺移されました。  
首切り台の両脇に有った灯籠 御影石等はは行方不明です。
高さ四bぐらい有ります。詳細を知りたい方は、説明いたします。
 関西大学都市遺産研究所所蔵 の牧村史陽氏が撮影した 
 水香橋 榎並川の写真有り
      青色の文字をネットで検索してください。
来迎時
51  (N−11) 来迎寺  城東区野江3−9−36
   文化。文政年間に滋賀県伊吹山 光了寺より野江の檀家に請われ
福永法電師(寺林と改名)が住職となり今日に至る、
以後歴代住職が 村の子供たちによみかきそろばん         
教えたとの事境内には慶安五年(1652年)の年号の手水鉢があります。
猿楽発祥の碑
  43  (N−05) 鵺塚(ぬえづか) 都島区都島本3−18
  
鵺とは 頭が猿 胴が狸 四肢が虎 尻尾が蛇の姿をした、       
 海獣のこと。平安京御所で近衛天皇(1150ころ)が毎夜怪物「ぬえ」に悩まされる事
件があった。それを源頼政(よりまさ)が射たおし解決した。人々は その怪物の姿に恐れ、
舟に乗  せて淀川に流したところ当地に漂着した   ので、里人が葬ったその跡という。
写真を撮っていると、地域の方が正面から撮影するより 後ろ面から撮る方がよいと言われ   
両面掲載します。 芦屋に流着いたとの説もあり・芦屋にも鵺塚があります。
17(M−12)  旧京阪電車路面 のえ駅跡
明治43年(1910年)4月15日開通 高架軌道新設 昭和6年10月14日( 1931年)現在の位置に移動
京阪電車のガードが低いのは、高架を高くすると、畑の日当たりが悪くなると
農家の反対が有ったからだと、言われています。

京街道 中橋で検索

城東区の空き地に中橋の
撤去された石材の写真が
掲載されていました。
2017.5月

源八橋から見た淀川

母恩寺への案内碑横の灯籠との
関係は不明

移転する前

國道第二號路線 距 高麗橋 原標
中橋2012年撮影
水香とは日常的に弔いの水を供えて 
線香の香りがしていたとのことです。
 54  (O−10) 水香橋 

旭区今市1−1−20

京街道 碑 旭区今市1−18−6
今市市バス停近く
国道1号線面した舗道上に有ります。

19  (M−12) 国道筋商店街
昭和二十一から 二十三年榎並井路の上に立てられた。 戦後復興のため、大阪市が川の上に商店を作るのを
 許可したみたいです。    建設許可は 北畑氏(二町会)氏の名義だそうです。  
写真店舗基礎の下は空洞です。
30  (L−12) 団野の川

昭和30年頃までは、団野さん旧屋敷の周りにありました。
1980年城北筋が出来る前の地図です。

都島区内代町の大正時代の地図です。
平成の初め大正生まれの西田勇さんが
記憶をたどり、描かれた、大正時代の
内代町図です。

京橋魚市場跡
京橋魚市場跡
京橋口
南無妙法蓮華経の石碑

守口市本町1−8−8
小春・治兵衛の比翼塚 鯉塚
戦争慰霊碑文
戦争慰霊碑
榎並橋の親柱

都島区内代町2−1−29

10  (J−15) 関目(森小路・野江)の七曲がり
       旭区高殿4−4−11
大阪城から 通行人の数や 内容が見やすいようにあえて 曲がりくねっ       
た道を作ったと言われていて、関目の七曲がりが一番有名ですが、、
     内代の道(野江の七曲り)の方が直角に曲がっていて通行人の内容が良く
     わかったと思われますが、

56  (R−09) 貨物線廃線跡

淀川駅につながっていました。

58 (W− 5) 片町

 区内南西端部の寝屋川北岸の東西に細長い町域で、

川沿いの道路の片側(北側)に家並が連なっていた
ことから、古くから片町と呼ばれていました。
京橋からはじまった京街道は東へ、旧相生町を進み、
 JR片町駅辺りから北に曲がる。
この相生町は昔は京橋片原町と呼ばれた。
道の北側のみに人家があったからで、片町という名は
これに由来しているという。
62  ( T−9 ) 京橋 追分道標 都島区東野田2−9−21 HIS京橋店前
 
京街道と大和街道(古堤街道)の分岐点にあった道標で、「左 京みち」           
 「右大和 なら のざき」「右 大坂」「文政九丙戌年九月吉日」
    (文政9年は1826年)と刻まれています。
38  (N−02)  水源地 市電車庫 淀川貨物駅 医療センダ 
   マンション スーパー
33  (L−10) 瓢箪池

大正時代の地図を参考にしてください。現府営住宅辺り。
菜の花や月は東に日は西に

農業水門

都島区都島本通3
三菱東京UFJ銀行南西前

渡部綱のこまつなぎ
 39  (S−04)  大町寺 小春・治兵衛の比翼塚 鯉塚 都島区中野町2−1

享保5年(1720)10月14日、網島の大長寺の裏で天満の紙屋の主人・治兵衛と曾根崎の遊女・小春の心中事件がありました。
この事件を脚色した近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」が評判となり、のち二人を弔うため大長寺に建てられた墓碑が比翼塚です。
隣に鯉塚があります。大長寺発行の一枚摺「鯉塚の由来」によれば、寛文8年(1668)、
淀川で捕った体と鱗に巴紋のある大きな鯉を見世物にしたところ、
しばらくして死んだので大長寺に葬りました。その夜住職の夢に巴紋をつけた甲冑姿の武士が現れ、
自分は大坂の陣で戦死した者で殺生の報いによりこの様な姿になったが貴僧の弔いで成仏できたと告げました。
そこで住職は「滝登山鯉山居士」と戒名をつけて碑を建てました。これが鯉塚であるといいます。
小春・治兵衛の お墓が八尾にもあります。 八尾市大通寺に有る夫婦塚が二人のお墓だと伝えられて
います。 二人の恋が実り 小春の出里で有る、八尾教興寺に帰って暮らしていたとのことです。
榎並小学校 猿楽発祥の地 碑      
榎並城 跡地の碑

榎並橋の親柱 

追分道標
都島区東野田2−9−21
HISの前
63  (S−14)  蒲生行者講 城東区蒲生4−10−24

蒲生行者講は、三百余年の間、蒲生村民の安全と繁栄を念じてきました。
大峰山上の行場で厳しい山行を終えて下山してきた人に
、体をまたいでもらうと強くなるというので

人々は、道に横たわってまたいでもらったそうです。
大峰山の麓(洞川)の宿場の元禄時代の宿帳に
この講の講まいりの記録が残されています。また
、町の守護神として祭られている不動明王や役行者
弘法大師像などは、大正末期から昭和の初期に建てられ、
近在の人たちにより手厚くお奉りされています。

古堤街道 
鯰江川(なまずえかわ)堤防址
古堤街道 鯰江川(なまずえかわ)跡
 64  (T−12)  古堤街道 鯰江川(なまずえかわ)跡
        城東区蒲生3−2  東方向撮影   
JR京橋駅の東側の京阪本線とJR学研都市線の間に挟まれて、古堤街道が走っているが、 
大和道・奈良道とも云われ大阪から奈良への幹線道路として利用されてきた街道らしい・・・
京橋を起点とし、茶筅の里の高山村(現在の生駒市の北部)までを結んでおり
、鯰江川の右岸の堤を街道として使っていたそうだ。

42  (M−03) 都島 ~社     都島区都島本通1−5−5

旧 澤上江(滓上江)(カスガエ)村の鎮守様
後白河法皇が母恩寺へ行幸した際に、当地の守護神として神社を置くよう命じた。毛馬・滓上江・友渕など8村が協力し
永暦元年(1160年)に、十五社神社を建立したことに始まる。当初の社名は天照大神のほか15神を合祀したことによるが、
昭和18年(1943年)都島区が出来た年に都島神社と改称した。本殿その他は大阪大空襲で失し、昭和24年(1949年)に再建された。
境内に立つ石造三重宝篋印塔は鎌倉時代後期の嘉元2年(1304年)     の銘があり、大阪市内最古の石造遺物として、
大阪府の有形文化財に指定されている。                
京橋口の絵
    八軒浜

天満橋松阪屋 西側 淀川淵
八軒浜

榎並橋

0 9 (J−17) 杉山街道 大阪城の玉造口に行く道
                   (玉造門に杉の山があった)
大阪城の玉造紋門向かう街道名 京阪関目駅の近くに杉山街道商店街が有ります。
11 (K−14) 関目~社
 城東区生育5−15−20
須佐之男尊を祭神とし、現在は、関目神社と称しています。創建年代は不明ですが、天正8年(1580年)豊臣秀吉が大阪城築城の際、
この地が大阪の鬼門にあたるということから鬼門鎮護の神として毘沙門天(びしゃもんてん)、牛頭天王(ごずてんのう)を勧請し、
小祠を建立したのが起源といわれています。社殿は生徳年間(1712〜13年)の台風により罹災しました。また、
明治18年の大水害により流出しましたが、明治21年に復興しました。現在の神殿は、昭和52年10月に建て直されたものです。

榎並講
23  (L−11) 柿木橋 松田 博さんの記憶にありました 都島区内代1−15−12附近
ちょうど松田さんの家の斜め前に有った橋で、この辺りが柿木地区と地図で確認できます。大正時代までに東成郡 内代村の住所は 字で表示されていました 都島 旭 城東 歴史散歩  23ページ地図参照
朝日地蔵
22  (M−11) 榎並橋跡  第2榎並橋跡  
都島区内代町1−6−16附近
榎並橋の親柱は 雲観寺のお地蔵さんの横に有ります。
地下鉄野江内代駅 2号出口を城北筋にでて右(北へすぐ)
手押し信号を西に渡った辺り榎並橋がありました。
内代井路に架す無名橋でしたが、亀岡街道支線、明治42年改修の際 
幅員を広め榎並橋と命名す。
延長 4.62b 幅員 3.22b
蒲生墓地
墓石
榎並地蔵
 34 (O− 6) 都島本通3−23
澤上江(カスガエ)墓地 本通り近辺の旧地名です 都島では一番広い面積の地名が、
 消えて無くなりましたが。 現在小生の知る限りでは、この墓地と澤上江 公園と 
 本通3丁目のシーメゾンマンション名に残るだけです。             
野田橋 跡 道標
都島区東野田1−1−11
京阪モールのAGGRE BAR北前
野田橋 跡 道標
41  (M−03) 母恩寺 (ぼおんじ)           都島区都島本通2
仁和3年(1168)に、後白河法皇が、高野山に参詣される途中、
とくにこのあたりの 景色を好まれ、ここに生母・待賢門院 菩提のためにこの寺を創建されました。
寺の名前は「母后報恩」の意味はこめられています。
往時は12の坊舎を有する大伽藍で、  代々住職は皇女が勤める尼寺でした。
淀川の洪水や戦乱でしだいに衰え 一時は荒れ寺と  なっていたこともあったそうです。          
 寺宝として後白河法皇と待賢門院の画像のほか、  享保4年(1719)の略縁起などがあります。
  尼僧が 綿帽子を製造。清白にして世に名高しと。澤上江村の 名物になっっていた。
43 ここから南東約500mのところに「ぬえ塚」がある。ここも母恩寺の境内であったととの事
京橋
川崎の渡し
京橋口の絵
0 8 (G−17 ) 城北川 大川と寝屋川を結ぶ 運河

地域工業化のために 昭和10年から15年に開削された運河です。

JR大阪東線ガード橋脚部分

説明板
25  (L−11) 団野 屋敷  都島区内代町1−14−11附近
           
  500坪有り 大きな楠があり 屋敷の周り井路が
有りました。 屋敷の前には 後の で説明しますが 松林もありました。
後景は城北筋の道路予定地と後方は旧団野家の蔵 屋敷
 後景は城北筋の道路予定地と後方は旧団野家の蔵 屋敷
寶龍寺
蒲生橋の親柱
61 (U−10) 蒲生橋の親柱 鯰江川 1974年埋め立 
      城東区蒲生1−1−3
    鯰江川に架かっていた蒲生橋の親柱が残っているが、
    鯰江川は寝屋川の北側を平行して流れる大阪市東北部の悪水を排除
    するための川だったようだ・・・この川には鯰が多かったことから
    鯰江川と呼んだそうで、物資の輸送にも広く利用され、
    野崎参りの船も鯰江川をさかのぼって寝屋川に出たらしいが、現在は   
    埋め立てられて道路になっている。
  29  (M−10) あめやの川

土岐製飴工場の前を流 雲観寺墓地を横切り大池(瓢箪池へ流れていた。)

川を埋め立て 公園になっています。

28  (M−09) 榎並川 児童 公園

森口門真歴史街道推進協議会発行 
森口宿 マップより 拝借 
文禄堤の写真屋さんで売っています。

桜宮~社の絵
桜宮~社
戦争慰霊碑
松林の写真
向かって右の道が野江橋後

21  (N−11) 野江橋跡橋の遺構は有りませんが、城東区野江3−6−7附近
京街道 九ケ井路に架かる。構造木造 延長8.9b幅3.4b野江橋の親柱です。  
大正15年3月 改築と刻まれています。
親柱の上の金具は 飾りか 照明器具か今のところわかりません。教えて頂けませんか。   
 榎並莊小学校の校庭にあります。
校庭の東側のフェンス越しに見られますが、字は反対向きなので、見られません。
内代村
53  (P−09) 榎並地蔵  都島区中通3−14−20

   仕置き場近くに有ったのを 現在の地に移設したとのことです。
墓石
50 51辺り 榎並城

榎並城は、天文年間に三好政長によって築かれた。 天文17年、三好長慶は同族争いを続ける
三好政長・政勝父子の居城榎並城を攻めた翌年6月には三好政長は、榎並城を政勝に委ね江口城に入り三好長慶と対峙したが、長慶に敗れ敗死した。 政勝は、父政長の討死を知り、榎並城を捨てた。
 その後、榎並城は廃城となって、所在地は不明ですが、 一度だけ発掘調査を行ったとのことですが、何も見つからず 踏め戻したとのこと。
 
追分道標
 48  (H−03) 淀川~社          都島区毛馬1−2−11

明治42年(1909)政府の神社合祀令により、城北村大字毛馬(現毛馬町、大東町)の氏神である八幡神社が
大阪市北区中野町(現中野町)の桜宮に、また城北村大字友渕(現友渕町、毛馬町の一部)の氏神である十五神社が
古市村大字南島(現旭区)の大宮神社に合祀されました。 のち毛馬・友渕の両地域では失われた神社復興の願いが強く、
 昭和26年(1951)に旧十五神社の境内地と社殿を用いて、
 旧十五神社と旧八幡神社を合祀し、毛馬町・友渕町・大東町の総鎮守として再建されたのが
 淀川神社です。 祭神は天照皇大神と八幡大神です。

  蕪村の銅像が建立されました。
36  (J− 4) カネボウ マンション スーパー
37  (K− 4) 製紙工場 マンション スーパー
31  (L−12) 松林   花菖蒲池
 
現在コーナンが建っているところが、松林の写真
 
47  (E− 0) 毛馬の水門 閘門 毛馬3丁目辺り

  明治18年(1885)の大水害を機に淀川の大改修が行われ、同43年に新淀川が開削されました。
このとき毛馬で新淀川と分岐する旧淀川の水量調節と舟運の便のために建設されたのが
毛馬洗堰と閘門です。洗堰は川の水が常にその上を流れ越す程度の高さに作った堰、
閘門は水位の高低差の大きい河川で水を堰き止めて船舶を通過させる装置です。
設計者はオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケで、閘門は明治40年、洗堰は同43年に竣工しました。
大正7年(1918)に第2閘門が竣工すると元の閘門は平時は開放、高水時は閉鎖して
洪水を防ぐ役割を果たしました。
その後、昭和49年(1974)上流に新毛馬水門・閘門が築造され、同57年に新しく
淀川大堰が完成したことにより、旧洗堰と閘門は役目を終えて閉鎖されましたが、
一部はわが国の近代治水工事の貴重な遺産として河川公園内に保存されています。
古くから洪水と治水に悩まされてきた淀川の治水をコントロールするために作られた。
45  (M−05) 農業水門 本通り

 かつて都島区一帯には一面の田園が広がり、井路川(いじがわ)と呼ばれる農業用水路が
淀川から寝屋川方向に幾筋も流れていました。水門は用水の取入れや排水、洪水の防御など、
必要に応じて開閉し、水路の水の流出入を調節するための施設です。

この水門は、都島区がかつて淀川の恵みを受けるゆたかな田園地帯であったことの象徴として、近くの
旧家に残されていたものを昭和49年に都島本通交差点の緑地帯に整備復元したものです。
40  (K−04) 渡邊綱の駒つなぎ 都島区善源寺1−11−26

明治42年(1909)まで旧善源寺村の
産土神社が鎮座したところで、この樟の大樹は同社の境内にあったものです。この樹は平安時代の中ごろ
、源頼光が社を創建する際に植えたもので、頼光の家臣の渡辺綱が参詣するとき馬をつないだとの伝承があるところから
「渡辺綱・駒つなぎの樟」と呼ばれています。
この伝承は当地が鎌倉期に源氏ゆかりの多田院領善源寺荘であったことや、この樹が樹齢 900年余もの大木であるところから、
酒呑童子退治で有名な源頼光や渡辺綱に結びつけられて生まれたものと考えられます。
 『大阪府全志』によれば、大正の頃、この樟は周囲約   12メートル、高さ約30メートルもの大木でした。
昭和のはじめに大阪府の天然記念物に指定されましたが、戦災で枯死し現在は往時の姿を偲ばせるだけになっています
27 (M−12) 榎並小学校 猿楽発祥の地 碑      城東区野江4−1−26
榎並城 跡地の碑猿楽榎並の猿楽は、鎌倉時代末期に丹波猿楽の新座としてこのあたりに座を構え
、住吉大社の御田植神事(おたうえしんじ)に奉仕するなど同大社の特権を得たこともあり、
一時は本座をしのぐ勢いでした。南北朝時代には榎並座と呼ばれ、丹波猿楽の樂頭(がくとう)として活躍しました。

 榎並の新座には名手が多く、大和猿楽の観阿弥(能の観世座の始祖)から
その鬼の風を学んだという馬の四郎・「鵜飼」や「柏崎」の作者といわれる左衛門五郎、
獅子舞の名手徳寿などが活躍していました。 しかし、室町時代の応永31年(1424年)には、長い間保持していた
丹波猿楽の楽頭職を大和猿楽の観世に譲り渡し、榎並の地が応仁の乱の影響を受けたこともあって次第に衰退しました。

  榎並城天文2年(1533年)に三好政長が築いた榎並城は、小さいながら
東成郡随一の要衝であったといわれています。

 戦国時代の天文17年(1548年)、室町幕府の管領職にあった細川晴元の打倒をめざす
家臣の三好長慶は、晴元方に属し榎並城を居城としていた三好政長とその子政勝を攻撃しました。
翌、天文18年6月政長は、城から討って出て、江口で戦死し、晴元の軍は敗れ、
政勝の拠点榎並城は陥落しました。細川晴元は、三好長慶に京都から追われ近江に脱出し、
明応2年(1493年)以来続いていた細川家の管領職は事実上終了しました。
 現在は、築城の際に水害を被むった三好政長が水火除難のため城内に建てたと言われる
野江水神社が近くに立つのみで、この地に城があったことを偲ぶものは何も残っていません。
明治9年(1876年)野江学校として創立生徒92名で 来迎寺の住職等も先生としてかり 出されたそうです。
26  (M−12) 火の見櫓 都島区内代町1−8附近
  
橋本紋治 大正7年8月竣工 半鐘は中西石松氏(野江)  経費二百9円六十八銭 小頭は 西田牛乳店の父さんがされていたとのことです。
  地下鉄野江内代駅 2号出口を城北筋にでて右(北へすぐ)手押し信号の辺りです。 昭和30年代まで有りました。
66  (W−6) 野田橋 跡 道標

  野田橋跡です。背後には皇紀二千六百年の記念碑もあります。

  野田橋は鯰江川に架かっていた公儀橋です。川も埋めたれられて   
います。 昭和13年7月に建てられた。

以前の道標は
 江戸時代初期より公儀橋の一つとして京街道の往還
   に架せられる

野田橋の跡 の道標があつたのことです。

京橋口の絵
至京街道
川崎渡し船
備前島
野田橋
京橋口の絵
69  (X−00) 八軒浜

八軒の船宿があったことからその名がついたと云われている。この船着場は江戸時代、熊野詣の陸の拠点として賑わった場所。十返舎一九著「東海道中膝栗毛」に登場する弥次・喜多コンビや、浪曲「石松三十石舟」で森の石松が大阪上陸の第一歩を踏みしめた場所として紹介されている。今では大阪⇔京都間は電車で約30分程の移動であるが、江戸時代は船で京都→大阪は片道約6時間、大阪→京都は川の流れに逆らうことから約12時間をかけた旅であったそう。
13  (K−14) 明治天皇 聖躅碑
(せいちょく) たたずむの意味  
        左面 大正十四年五月十日建立
      正面 明治天皇 聖躅碑 右面 西井茶屋跡
14  (J−13) 大宮~社  一の鳥居跡    旭区高殿4−4−11辺り

もと大宮八幡宮といい、応神天皇を祀っています。


七曲がりの中程に 一の鳥居があり、12町(約1.300b)
松並木が大宮~社まで続いていたとの事
大宮 ~社ホームページより 大宮神社  05に説明有り                        
0 3 (C−18) 木犀(もくせい)の陣屋 跡
   
1650坪の陣屋で御成門も有りました、説明板のみ
蒲生や関目までキンモクセイのの臭いがしていたとのことです。
24(L− 9) 雲観寺 墓地 大きな楠が有りました。
  都島区内代町2−1−29
現在 雲観寺の建っている場所 雲観寺慶長8年(1603年)紫雲山 雲観寺の寺号を願い出て
近江の国の元福寺より 入寺した智観法師が第十五世を継ぎ現在に至る 城北筋の工事に伴い   
現在の場所に平成3年3月に(株)金剛組より、移転完成しました。
貨物線廃線跡

桜小橋交差点 北
大阪 国技館跡

 城東区 区史より

国技館写真
澤上江墓地
0 4 (D−18) 朝日地蔵
 旭区千林2−7−14
今市の庄屋が,このお地蔵様を自分の土地へ移動したそうですが,  

  知らない間に高瀬の水路に転がり,そのまま流されてこの地へ
辿り着かれたと言う事らしいですこの辺りは明治頃までは四方八方   
 に水路が流れていて、住人は舟で行き来を行っていました。地蔵  
  さんは鼻がかけていますが これは舟人のイタズラで櫂で叩かれて  
  欠けたと言う説や、ここがちょうど水路の曲がり角だったために   
 舟の方向転換の櫂の当て場とされて欠けた説などがささやかれて  
  います。

お酒が好きな地蔵様で願いがかなうと、お酒を供えるそうです。
京街道 碑

京街道の都島区 城東区 旭区の榎並川に架かっていた橋の名前です。
桜小橋 水香橋 野江橋 榎並橋 柿木橋 中橋 。

内代町に長く住んでいますので、内代地区の事なら問い合わせください。
国道二号線 原標
44  (Q−03) 桜宮~社 都島区中野町1−12
摂津東成郡中野村(現在の中野町)の淀川左岸に鎮座し、天照皇大神を主祭神とします。社伝によれば、
もとは野田村(現在の東野田町)の旧大和川の堤、字桜の馬場にあったが、
元和6年(1620)に社殿が洪水で流され、漂着した中野村に改めて祀られました。
ところがそこも低地で再び水禍に遭ったため、
宝暦6年(1756)現在地に遷座したと伝えられています。
 のち、境内はもとより淀川の東岸に至るまで桜が植えられ、花の盛りには「雲と見、雪と疑ふ」ほどであったので
市中から徒歩や船で訪れる人が多く、「実に浪花において遊宴の最上、
花見の勝地」(『浪華の賑ひ』)と賞される名所になりました。このため、旧地の地名に因んでつけた社名は、
広く桜の花に因むと思われるようになったといいます。
67 京橋魚市場跡      都島区片町(京橋)北東橋詰
江戸時代、京橋川魚市場は雑喉場の生魚市場、
  永代浜の干鰯(ほしか)市場と共に大坂の於ける3大魚市場であった。 
 その起源は、現地に建てられている大阪教育委員会の説明板によれば 
 「石山本願寺の時期の設けられた鮒市場とされ、、           
 もともとは漁民が京橋北詰に川魚を持ち寄って販売する市の     
  ようなものだったと考えられる。」としている。
「摂津名所図会」には、川魚市場といっても店頭での商いではなく 、 
漁民たちが持ち寄った川魚を路上で取引している風景が描かれている。

 また、「1741年(享保元年)に著された
『京橋川魚独占販売由来記』 によると、慶長年間
(1596〜1615年)の初め頃、小出播磨守秀政の指示で、
 構成員55名、内5人を       
 幹事である年寄とする 市場機構のシステムが整えられた。 近代に入り、市が機構の変革が進む中で、
  京橋魚市場は明治末年には 中之島6丁目付近へ移転し、  1915年(大正4年)に
 大阪川魚株式会社が設立された。」とあり、その後、  他の魚市場と同様、  1931年(昭和6年)に
 新しく出来た大阪中央卸売り市場に吸収された

桜小橋交差点

桜小橋交差点
  32  (J−09) 内代公園内  戦争慰霊碑 都島区内代町3−3

昭和20年大東亜戦争も日に日に戦局不利となり再三にわたり本土上空に敵機の来襲を見るにいたりました。
内代町も同年6月7日折からの大空襲に一瞬にして火の海となり降りそそぐ焼夷弾、機銃掃射によって
老若男女、幼児に至る60有余名が悲惨な犠牲となられました。全部この地で荼毘に付され遺骨は雲観寺、
一心寺へと納められましたが無縁の遺骨は散り散りに埋没、一時供養塔を建立供養を営みましたが
公園整備で取り除かれ、その後49年2月霊の願に依り町内世話人相はかり同年6月供養塔を建て年ごとの
法要を営み52年6月5日33回忌も無事回向、供養塔に変え世界の平和を祈り茲に碑を建立する
昭和53年6月吉日 内代町世話人一同
近隣には 供養塔が 長柄の橋のたもと、JR京橋駅 城北公園の千人塚にあります。市内には他にもあります。
15  (L−13) 中橋(2014.3撤去)

榎並川に架かっていた石橋
旭区に一番古い橋でしたが。
2014年  3月まで橋がありました。
阪急オアシスの工事で撤去されました。

後のマンション右から4軒目辺りです。
0 1 (B−18) 京街道 碑 案内板京橋口か5.4qです。
京街道はここから 守口宿 枚方宿 に
入ります。 このあたりが淀川の堤防でした。明治の地図
拘置所

拘置所