摂津国 東成郡 榎並莊 は

野田  中野   善源寺 友渕 毛馬 赤川 茺生「ナギフ」(なぎ) 

中村  江野  南島 森小路 今市 千林 貝脇 上辻 馬場 般若寺 別所 下ノ辻

今福 蒲生 関目 内代「ウチダイ」(ウチンダイ) 野江

以上25村が榎並村だと書いています。

滓上江(カスガエ)は 都島区本通り付近一帯 茺生「ナギフ」(なぎ)は旭区生江町に

渡し船は 川崎 中野(源八) 毛馬 今市

橋は 野田 備前前 野江


古跡 榎並城古跡 野江村 50に説明有り

大渡 放出村 不明

大川尻 中村 淀川の汀 川船いて 海に出るときは、ここから出た

絶間池 (たえまいけ) 千林村 強頚絶間(こわくびたえま)人名
      茨田堤で人柱になった人の話からの由来と思います。
強頚絶間(こわくびたえま)の碑 旭区千林2-12-23 高木邸に有り 見学不可
 関西大学都市遺産研究所所蔵 牧村史陽氏が撮影した写真有り
      青色の文字をネットで検索してください。

関舗  馬場村 関所を構えたと考えられる(私見)
1885年明治18年の大阪地図



のえ村

内代村

明治22年(1889)榎並村として発足しましたが、京阪電車の開通によって、人口が

急速に増え、村発足当時の300戸、人口 1.500人 から大正3年(1914)には、

1120戸 4.500人とほぼ3倍になりました。そこで大正3年10月1日より、町制を

下図の従来の大字 小字の名称を変えて、町名に番地を定めることにしました。


内代村柿木(カキキ)が 内代村1番から32番     臼樋(ウスヒ) 33番から53番

今池(イマイケ) 54番から81番          大野田(オオノダ) 82番から115番

馬作(ウマサク) 116番から154番        東程(ヒガシホド) 155番から175番

しく田(シクタ) 176番から206番

大正15年の地図に当てはめるとこのようになります。

現在の3丁目~4丁目は内代町には入らなかったみたいです

後に 城東貨物線が出来線路を挟んで都島区と旭区に分かれたみたいです。

22ページ参照してください
雲観寺のお地蔵様
お地蔵様の由来
お地蔵様

内代公園の南側 3丁目9番地

大阪市都島区内代町の由来について、 
内代帖
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お地蔵様
 京街道歴史散歩

昭和30年代の 行事りの写真 根ケ山さん提供

内代町4丁目 城東貨物線脇
8町会のお地蔵様

榎並橋の親柱
こんな所にあるんです。


城北筋が出来るまでは、
右の地図の所らに有りました。
雲観寺さんが、移転したときに
移動されました。。

左の倉庫は だんじりの倉庫です

内代町1丁目 1番地
児童遊園地に有ります。

立野衣料

昭和30年代の大宮神社の行列写真 烏帽子姿の神官が神馬を連れています。

お地蔵様
お地蔵様

現 ビューハイツが建つ前の 映画館の写真です。
行岡タバコ店の前です。
子供だんじりも 有ったみたいですね。

行岡たばこ店

行岡 たばこ店の 絵

お地蔵様
お地蔵様
お地蔵様
榎並橋の欄干
雲観寺
お地蔵様
お地蔵様
1910年明治43年に淀川の改修

明治18年 1885年の地図

大正15年 1926年の地図と
現在の地図を重ねてみました。
琉球朝顔の群生地今

内代町2丁目雲観寺に有るお地蔵さん
夜泣き地蔵講

大正3年 1914年生まれの牛乳屋の西田勇さんが
平成の初め昔を思い出し、残してくださった地図です。

内代の地名は地図でも判るように 300年以前から在る地名でです。伊野忠敬の地図にも内代の地名が出てきます。
内代の事を知ってもらいたい思いで、このページ作りました。 未完成ですが、ネタを捜し充実させて頂きたいと思います。

お地蔵さん1丁目
だんじりの倉庫とお地蔵様

内代村

内代のお地蔵様を撮ってきました。

10年ほど前の航空写真です。

内代町9町会のお地蔵様も花盛り2012年10月20日撮影

琉球朝顔の群生地今が満開です。
内代町2丁目城東貨物線(外環状線開通で朝顔は少なくなりました。

写真差し替え予定ですが暇が無く未定。

雲観寺

内代村

国立公文書館所蔵

摂州榎並河州八箇両莊之地図

宝暦4年4月5日  1723年製 江戸中期 

出版 高津一 宇木堂 京都京極髙ノ辻の

森謹斉幸安が作図
 京街道歴史散歩

映画館が立つ前の写真ですからこちらの写真のほうが古いみたいです。

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内代公園北の端を西いる